人間以外の生物にとって、交尾は生殖以外の目的を持ちませんが、私たちのセックスは生殖とは切り離された、まったく独立したシステムを形成しています。
この独立したセックスシステムに特有の概念として、人間にのみ、セクシュアリアが存在します。
セクシュアリアとは、平たく言えば、肉体の“感じる”部位、性感帯のことです。
クリトリスや膣、男根や陰嚢といった、直接性的な刺激を“感じる”性器部分を一次セクシュアリア、それ以外の、性器ではないけれど、触れられてそれが性的刺激だと“感じうる”部位を、二次セクシュアリアと言います。
「女性は挿入されている時がいちばん感じる」と信じている男性が、今もどれくらいいるかはわかりませんが、これが男性側の誤った思い込みであることは、もはや常識になりつつあります。
多くの人が発言しているように、性感と性欲を高めるために、じっくり時間をかけた前戯は欠かせません。
セックスにおける前戯の意義は、だいぶ見直されてきてはいます。
ただ、もっと細かいことを言うと、キスしてちょっと乳首を吸ったら、すぐに一次セクシュアリア=女性器に手を伸ばす人も、まだまだ多いですね。
女性にとっての前戯は、二次セクシュアリアこそが重要です。
ただし、「女性は全身性感帯」とよく言われるような、そういった単純な話とも違います。
「性感帯はどこそこにある」なんて情報も見聞きしますが、実際には、どこが感じる、という話でもありません。
それは、男性の手や唇や舌のあたたかみによって、縦横無尽に、あるいは変幻自在に浮き上がってくるものです。
女性は「男性を選ぶ性」だからです。
「ああ、こういう女性か」と攻略されにくいように、男性をかく乱するようにできています。
人間の皮膚というのは、わかりやすく言えば“脳”です。
ふだんから、暑いとか寒いとか痛いとか、皮膚のセンサーは鋭敏に働いてくれますが、セックス中の女性の肌は、さらに多くの情報を捉え、考え、判断します。
彼が愛情を込めてくれているかどうか。
どれくらい素敵な男性にめぐり合えたのか、またはそうでないのか。
この後、どこまで性感を高めていけるかという予測も付くし、相性や相手の人間性まで”なんとなく”わかってしまいます。
だから、性感もさることながら、情報源としても、二次セクシュアリア=肌のふれあいは、女性にとって欠かせないプロセスなのです。
セックスは、サイクリングやクルージングのようなものだと思ってもらえるといいのですが。
目的地に着くことよりも、そこへ向かう途中の景色や寄り道、ハプニングを楽しむためにするセックス、です。
食らいあうような、貪りあうような激しい行為も、時にはいいかもしれませんが、基準にしてしまうと、回を重ねるごとにむなしさが募っていきます。
相手の身体を使ったマスターベーションみたいなものだからです。
豊かに心を満たすオーガズムにも至りません。
セックスは欲のぶつけ合い、奪い合いではないし、媚びるためにするものでもない。
人は鏡のようなもので、自分が孤独を埋めようとすれば相手も孤独を押し付けてくるし、奪おうとすれば奪われて終わります。
男性は、よっぽど経験値がない限り、こうした攻撃型セックスを「よかれ」と思い込んで基準にしているので、いずれにしても、あなたからおふざけの時間を増やす工夫をしたほうが得策です。
少女のようにくすぐったがったり、あまりの気持ちよさにちょっと暴れてしまったり。
その時その時で少しずつ違った反応をする女性は、男性には新鮮に映り、より愛しくなって、前戯を楽しめるようになるはずです。
そして、あなたも、気持ちよさのお返しがしたくなる。
セックスという行為の中で、おたがいを思いやる心がふくらんでくるでしょう。
愛はだれかを思いやる気持ち。相手の深部を見極めようとする想像力です。
理想の男性じゃないから絶対に愛せない、ということもなく、大切なのは、おたがいの人間性です。
そうやって、肌のふれあいは、心のふれあいになっていきます。
肌と肌、心と心、人生と人生。
ふたりのあいだの境界線が、だんだんあいまいになっていくと、オーガズムが起きやすくなります。
「セックスってそんなきれいごとじゃない」といった反論も、よく受けるのですが、はっきり言うと、オーガズムはきれいごとです。
女性にとって、最高に美しい境地です。セックスに美意識を持たないと得られません。
孤独感、疲れ、寂しさ、悔しさ…。
生きていると、いろんな苦しさを抱えていきますが、それをセックスで解消できると思うのは、逆効果です。
私自身も、逆効果の痛手をたくさん負ったので、自信を持って言えます。
負の心には、負の心しか寄ってきませんし、得られる性の悦びも一時的な浅いものです。
相手が負の心であなたを抱いているかどうかを判断するのが、二次セクシュアリアの役目でもあります。
これは、やってみればきっとわかると思います。
