いい子になると、もっといい子を望まれる。
胸いっぱいの愛を注いでも、愛が返ってきた実感がなくて不安がふくらむ。
喜ばれた笑顔がうれしくて、もっと喜ばせようと必要以上にがんばってしまう。
でも、わずか7歳の少女には、そんな心の小さな痛みよりも、本能である「痛みがまんソフト」の機能のほうが優勢です。
自分は愛がほしいのだということも意識ではわからないので、お母さんの期待に応えつづけました―――むじゃきな笑顔の裏からいちばん遠いところ、心の奥で、
(もっと愛されたい。もっとわたしを愛して、おねがいお母さん!)
と、泣いている自分に気づきもせずに。
8歳、9歳、10歳と成長していくあいだに、家庭の外の様子、両親の関係性や社会での立ち位置といった、陽の世界のことも、日々スポンジのように吸収していきます。
世の中には、神様のように思っていたお父さんお母さんでもかなわない人たちがいることもわかってきます。
いつも朝から深夜まで働き続けているご両親であれば、病気にならないか、倒れないかと気が気じゃなくなります。
(かわいそう…)
(助けてあげたい…)
でも、まだろくな役にも立てないことは理解できるため、非力な自分を責めたりもします。
その一方で、どうしてこんなに愛していることに気づいてもらえないのか、悲しみも覚えます。
わがままがいえる姉妹兄弟がうらやましく見え、ご両親の関係がうまくいっていなかったり、家族内にトラブルが頻発する場合では、ますます自分を殺して、犠牲的な心を持つことも。
繊細で、けなげで、やさしさにあふれた女の子ですね。
そんな娘の気持ちに気づかず、お母さんが傷つく言葉や態度を投げてしまうことも当然あったでしょう。
あなたの深いやさしさは、あなたの気持ちの上でのことであり、陽の世界では、だれが見ても「お母さんに守られている、愛に恵まれた無邪気な子ども」でしかなかったからです。
小さな絶望と、くやしさ。
いちばん身近な人にさえ理解されない悲しみは、思春期以降の反抗期に無意識から意識へと浮上します。
発露の度合いは人それぞれですが、発散の強さや手段によっては、今でも自分を責めてしまっている女性もいるでしょう。
(お母さんにあんなにひどいことをしてしまった…)
(怒りや悲しみがコントロールできないほどふくれあがって、思いっきり困らせてしまった…)
人は、やさしいのですね。
だれかを責めたり、憎んだりすれば、そんなことをした自分をひどく責めます。
心をぎゅうぎゅうと苦しいほど使い、からだの変化に耐えながら、さなぎから蝶になるように、いつしかあなたは大人の女性になりました。
もう、どれくらい経ったでしょうか。
5年、10年、20年……。
慣れたつもりではあるけれど、なんだか不思議な落ち着かなさも感じていませんか?
遠く過ぎ去ったはずの激動の過去に、大切ななにかを置き忘れているような。
(恵まれていると思えるけど、足りない…)
(充実していると思えるけど、さみしい…)
(これでいいのかな…)
人生ってこんなもの?
生きるってこういう日々のくりかえし?
